黒糖焼酎の話

奄美黒糖焼酎 海咲

いつまでも聞ける話じゃないなと、シマのお年寄りの話などを出来るだけ沢山聞いておきたいと、朋樹はもちろん、島唄が好きな私らは、チャンスがあればすすんで足を運んで話を聞くようにしています。

特に私、最近は「酒」に関する話を色々聞くことができ、「へーーー」的な話しが次から次へと繋がって、楽しませてくれるのです。

以前も話題にした事がありますが、すでに廃業してしまった、わきゃ島(自分達の街)瀬戸内の酒、西平が無くなってしまったのですが、その西平があちこちで話を聞く度に、強烈に身近な酒になっています。島の同級生に、沖縄姓の親友がいますが、その彼の爺さんは泡盛を作りに沖縄からやってきたと言う事を今になって知った次第。

爺さんが生きてる間であれば、もっと色んな話が聞けただろうにと残念です。得てしてそんなもんで、親孝行したい時に親は無し、そんな話と同じかもしれません。

>>> 西平酒造の加計呂麻と瀬戸の灘

西平酒造の加計呂麻と瀬戸の灘

そんな、西平酒造の歴史を遡れば沖縄と繋がります。元々は沖縄の首里に本家があり、沖縄から喜界島へと渡り、その後名瀬で泡盛の酒造場を開いた西平家より分家した創業者が、戦後奄美群島がアメリカ軍政下におかれていた昭和25年(1950年)、旧瀬戸内村に量り売りの泡盛の酒造場を開いたのが西平の始まりです。

昭和28(1953)年の奄美諸島の日本復帰に伴う酒税法の特例通達を受けて、黒糖焼酎「瀬戸の灘」を造るようになった訳ですが、昭和30(1955~1965)年代までは従来の泡盛も製造されていたそうです。古仁屋の郷土館へ行くと古い西平の看板が展示してあって、そこには泡盛の文字が見られます。

更に言うと、この頃は各家庭で芋焼酎などを作っていたというから面白い。正月が近づくと、嬉々として芋焼酎を作ったと言い、今ならまだ作り方まで詳しく聞くことが出来ます。

何が面白いかって、結局、奄美=黒糖焼酎と言うイメージが出来上がったのは近年なのです、昭和の40年代以降に出来た酒文化で、もともと島の人達は泡盛を飲んだり芋焼酎を飲んだりしながら酒税法の影響で黒糖焼酎を飲むようになった、というのが見て取れるのでした。

じゃ、奄美では酒文化が無かったのか?と言われるとそうではなく、これもまた奄美大島がたどってきた歴史の中で、制限されていたのですね。素材さえあったら酒造技術はあったのです。実際に、芋を始めソテツなどでも酒を作ったと言い、即席で作るミキの様な酒の話も聞くことが出来ます。

遠く無い将来、奄美地ビールの登場など期待します。心待ちにしていたりするのは私だけじゃ無いはず、楽しみです。

◆ 里朋樹オフィシャル 記

カテゴリー: 奄美の三線コラム | Tags: コメント(0)

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